--- マミーさん (id:mamichansan) に。
子どもの頃、父方の祖父母と一緒の家で暮らしていました。
昭和四十年代の話です。
祖母も祖父も、ぼくが小学生のうちに亡くなりましたが、どちらとも話をした記憶すらないのは、うちが少し奇妙な家庭だったということかもしれません。
その奇妙さについては今は触れませんが、とにかく祖父母とは、一緒の家で暮らしているものの、まったく疎遠で、改めて考えてみると、言葉はおろか、手を握った記憶もなければ、視線を交わしたことすら覚えがないほどです。
* * *
ぼくには三つ歳上の兄がいます。
しばらく前に実家で、母が出してきた古い写真を見ていたら、まだ小さい兄を祖父が手を引いている写真があって、へー、あのじいちゃんも、長男のときには可愛がってたのか、などと思いました。
なにしろ、祖父については、まともに喋っている姿すら見たことがない有り様で、同じ家には住んでいるけれど、なんとなく他人のような存在でしたから。
それで、というべきなのか、よく分からないのですが、ぼくには祖父のことが好きだとか、嫌いだとか、そういう感情がありません。
そして、実のところ、祖父に関して、あまりいい思い出はないのです。
* * *
祖母が元気な頃は、祖父と祖母は、ぼくたち家族とは別々に食事を取っていました。
やがて、祖母は心臓を悪くして入院し、しばらくして亡くなりました。
そのときになって初めて、ぼくたちは祖父と一緒に食事を取るようになりました。
その頃には、祖父もずいぶんと歳を取っており、言葉もはっきりとしなくなっていました。
そして、ぼくの母に用事があって何かを言うのですが、うちの母がまた、そういう場面で勘が働かず、そつなく話す話術もなく、ただ何度も聞き返すと、祖父はいらだって大きな声を上げ始めます。
子ども心に、苦しくて堪りませんでした。
今これを書いていても、腰が緊張で締めつけられます。
また、祖父は食事のとき、何かをのどに詰まらせては、大きくむせます。
長方形の食卓の短い辺のところに祖父は座っています。一番遠くの反対側の短い辺のところには、二つ年下の弟が座っています。
手で口を覆うこともせず、大きくむせるので、食卓の上じゅうに祖父の口の中から出たものが飛び散り、向かいに座っている弟は直撃を受けます。
父も母も、そつがありすぎて、何も言葉も出ず、場面は冷んやりした空気に包まれます。
今これを書いていると、その場面を思い出して、滑稽さに笑いが込み上げてくるのですが、同時に、腰には緊張が残ったままという、奇妙な心身状態です。
* * *
さて皆さんは、初めて見た夢の記憶がおありでしょうか。
一説によると、夢は毎日見ているもので、ただ記憶に残らないだけだ、というくらいですから、本当に初めて見た夢の記憶というのは、普通ありえないものだと思います。
ですから、これは憶えている限りもっとも古い夢はどんな夢だったのか、といった程度の話です。
ぼくの場合、幼稚園の頃に見た、自分なりに、これが初めての夢だ、というものの記憶があります。
不思議なことに、その夢に祖父が出てくるのです。
夢の中でぼくは祖父に手を引かれています。
そして、そこにお化けが現れます。
お化けだからといって、すごく怖いという感じではないのですが、うっすらと怖さを感じていたような印象が残っています。
ぼくの記憶に残る初めて見た夢は、そんな、ほんの切れ端だけのものなのですが、今ひさしぶりにこの夢のことを思い返してみると、あんなに疎遠に思っていたにも関わらず、ぼくはやはり祖父に守られていたんだなあ、と感じるのです。
母をどなったり、食卓でむせたりする、年老いた祖父しか印象に残っていないぼくにとって、祖父はなんとも近寄りがたい存在でした。
それでもとくに嫌いだと思わなかったのは、記憶にもない小さな頃に、あの写真に映る兄と同じように、祖父に手を引いてもらった経験が、多分あるからなのでしょう。
記憶には残っていない、祖父のその手が、夢のなかのかすかな記憶としてつながって、今もぼくを守ってくれているのだと、遠い過去に想いを巡らせながら、ぼくは実感するのです。
ぼくたちは、おそらくそうやって、気がつかないままに多くの人に守られていて、だからこそ、しんどいことも多いこの地上で、楽しいことや幸せな時間を見つけるために生きていけるのではないでしょうか。
* * *
あなたの初めて見た夢は、どんな夢でしたか。
機会があったら、教えてください。
それでは、また。
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うしみつどきにひとり
ネットあそびをしていたのだ
リラックスしてたのしんでやっていたのが
きがつくとこしにきんちょうがきている
それでもなにかにつきうごかされて
たのしいのかもわからないままあそびつづけたのだ
こしのきんちょうはぬけないままで
そのうちかたまでこりだした
それにもうじゅうぶんたんのうしたじゃないか
じぶんでじぶんにいいきかせた
というわけでみなさんおやすみなさい
いじょうがきょうのしゅうみんのじゅもんです
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世界がどのようにつながっていて、何が何にどんな影響を与えているかなんて、そんなこと簡単に分かるはずもなければ、一言で伝えられるわけもないんです。
ぼくたちは周りで起こるできごとを見聞きし、活字や映像を通して情報を仕入れ、自分なりの「世界」を創り上げるんですよね。
そうやって創り上げた「世界」が、現実の「世界」とどれだけ似てるのか、似てないのか。
そいつも一つの問題ですが、それと並んで問題なのが、この「世界の写像」が、個々人ばらばらで、実のところ、共通性なんて、これっぽっちも当てにできないってことです。
それなのに不思議なことに、ぼくたちは、みんなが同じ「世界」を見ているつもりで生きているわけです。
そして、みんなが同じ世界に生きているということ自体は、ある意味、客観的な事実ですから、問題は棚上げされて、多数派に安住する限り、余計なことは気にせずに生きてけるってわけです。いやあ、めでたい。
おっさんのダメ出しが第三次大戦を引き起こして世界は大惨事になる、などと言えば、それはただの妄言にすぎません。
しかしながら、それとこれとが隣り合わせにあることは、僕の頭の中の世界ではただの事実にすぎないので、アホなお人がアホなことを言っておるなあと思われることも承知の上で、これはぼくにとっての事実にすぎませんよとくだくだしく述べた上で、もう一つ妄言をしるして今日はタブレットを置くことにします。
大惨事になって初めて知る、三時のおやつのありがたさ。
☆http://twitter.com/tosibee もよろしく。
世界は響き合っている、今日も。
そう、ぼくは思うんです。
それは、むろん、ぼくが「勝手に思っているだけ」のことなんです。
ネット上のあちこちに、静かに放たれる言葉を見るとき、あれっ、これって、ぼくがこのあいだ放した言葉が、響きを生み出したのかな、なんて思うことがあります。
ただの「自意識過剰」かも、しれません。
でも、それも、いいじゃないですか。
その響きに囚われて、おごった気持ちになってしまうのなら、つまらないことですけれど、なんとなく、響きを感じて、それとなく、響きを楽しんで、万物の生成と消滅を味わうだけならば、なんの問題も起こりやしないんですから。
ネットのあちこちで、静かに放たれる言葉を見るとき、その言葉に動かされて、ぼくも言葉を放ちたくなります。
おせっかいで、えらそうな言葉を、つい放ってしまったりもします。
でも、ほんとは、ちょっとさみしいだけなんです。
言葉のやり取りを、楽しみたいだけなんです。
だから、直接なげつけるような言葉はもうやめることにして、そっと静かに言葉を放すことにしようと思うんです。
そして、そんなふうに、いったん人の手を離れた言葉は、それ自体の命を持って、それぞれに響き合うことになるのでしょう。
世界は響き合っている、今日も。
違いますかね?
☆しばらく前の記事ですが、こちらもどうぞ。会社なんてやめても、どうにかなるよ、という話です。
【気分はオフグリッド・あなたは自由に生きたいですか、生きられますか】
http://meratade.blogspot.jp/2016/07/blog-post_26.html
ダイアリーのみなさん、こんにちわ。
blogspot に便所の落書きが金の卵を生むガチョウになるネット錬金術と瞑想の効用についての駄文を書きましたので、よろしければどうぞ。→
いんたーねっとトハ超次元的ニ縫イ合ワサレタ便所ノ落書ノ網目ナリ
http://meratade.blogspot.jp/2016/10/blog-post_4.html
ここは超亜空間なんだよね。
キミさえその気になれば、どんなことだって起こりうるってことなんだよ。
ぼくみたいに感受性の低い人間は、カスタネダと一緒で、魔法のキノコの助けが必要だったりするんだけどね。
そのなんでも起こりうる素敵な迷宮のなかで、どうしたわけか便所の落書きと戯れてるアホウが、ここに一人いるってわけでさ。
ま、いいじゃないか。
便所の落書きで、その要塞を守ってるつもりなんだ。
好きにやれば、いいじゃないか。
自分なりの神殿ができあがれば、それで万々歳じゃないか。
ひとから見たら、便所の落書きにしか見えなくても、自分にとっては最高の呪文ってことだってあるだろう?
頭の中に作り上げた掘っ立て小屋の宮殿で、おれは一人さ悟りを決めさせてもらうよ。
☆というわけで、こちらも読んでくれたまえ。
便所の落書きが、錬金術によって、至高の瞑想となる瞬間を、荘厳に描き出しておいたからさ。
【いんたーねっとトハ超次元的ニ縫イ合ワサレタ便所ノ落書ノ網目ナリ】 http://meratade.blogspot.jp/2016/10/blog-post_4.html
ゲゴンのバクソクから逃れようと思いついたのは、
もう何十年も前のことです。
思いつくのは簡単ですが、実行は難しいのです。
ゲゴンのバクソクから、ずいぶん逃れたつもりでいたのです。
けれど、全然、まだまだだなと、当然気がついたりするものなのです。
西インドのプシュカルという聖地で、
インドの痩せ気味の黒い人たちを街で見ていると、
自分が日本人だなあという気がしてくるのです。
ゲゴンにバクソクされているのです。
バクソクされているのは、ゲゴンばかりではありません。
カッコとかガクテツとか、吹けば飛ぶよなネンガイに、
バクソクされまくりのありさまなのです。
ああ、ぼくは、
もうバクソクなんてやめにして、
すべてのものからレガノって、
ただただ風にでもなってしまいたいのですが、
まだまだその境地には遠すぎます。
遠すぎることをいつも忘れないように気をつけて、
その日に向かって歩き続けるだけなのです。
☆こちらもどうぞ。
エッセイ的読み物です。堀田善衛「広場の孤独」にも軽く触れました。
【改憲に王手。ニッポンはホントーに大丈夫なのか?】 http://meratade.blogspot.jp/2016/09/blog-post_26.html
人生は乗るか反(そ)るか、
そういうことだと、ぼくは思うのです。
乗るという意味を、安全牌の方向で考えて、
公務員になるのもいいですよね。
大学のSF研の友だちが、うまいエロ漫画を描ける奴なんだけど、建築学科だったりして、
都庁に潜り込んでるのには感心しました。
ぼくは、公務員どころか、会社員も務まらない莫迦ものなので、
はじめから二年くらいでやめようと思っていた会社勤めを、
二年足らずでやめて、気楽にも、悩ましい人生を送り続けて、
早三十年です。
ほどほどには乗れてます。
そんなに苦労はしてません。
だけれども、反れっぱなしで、どこにも戻りようにありません。
とはいえ実のところ、誰だって戻りようのない人生を、
一度限りの人生というものを、
きっぱりと生きる以外に道はないのですから、
ぼくも、この、反れっぱなしの人生を、
きっちりと、きっぱりと生きるだけなのです。
というわけで、みなさん、楽しもうじゃないですか、
この乗るか反るかの人生という奴を。
☆こちらもどうぞ。会社なんてやめても、どうにかなるよ、という話です。
【気分はオフグリッド・あなたは自由に生きたいですか、生きられますか】
http://meratade.blogspot.jp/2016/07/blog-post_26.html
東の果てのひょうたん島で、ぼくらは夢を見たのだ。
大人になどなりたくなかったのに、ある日「きみはもう大人だ」と言われ、仕方がないので、その日から大人の仮面をつけて、今日まで生きてきた。
すると、大人に成りきらなかった友が遠くで、「虚構(ゆめ)は現実に負けたりしない」と言うじゃないか。
それでぼくらは、友が創り上げた壮大な夢を見たのだ。
その夢は、大人になってしまった裸の王様たちには、子ども騙しにしか見えやしない。
だからぼくたちは、その夢をこっそりと楽しむことにしたのさ。
こっそりと、しかし、おおっぴらにね。
☆ぼくたちの「夢」の映画「シン・ゴジラ」についてはこちらにも書いています。
【きみは「シン・ゴジラ」に日本の未来を見たか(ネタばれ御免)】
http://meratade.blogspot.jp/2016/08/blog-post_7.html